「理解する」ことについて
コロナウイルス関連で物議をかもした某専門家の書いた本へのコメントの一つが目に付いた。
投稿者は厚生労働省が1月の時点で「コロナウイルスは人から人への感染はない」と発表したとしていて、疑問を持ったのでちょっと調べてみた。
見つけられたのはこれ。1月16日の文書。
新型コロナウイルスに関連した肺炎の患者の発生について(1例目)
本文中には、「持続的なヒトからヒトへの感染の明らかな証拠はありません。」とある。
もしかしたらこの前後に、別なメディア等で「人から人へ感染することはない」とした文書がある可能性をあたしは否定できないないので、投稿者が正しい可能性はある。
ただ、正直なところ、上記の「あると確認されていない」という趣旨を「ない」といったと誤認したのだろうと思っている。
不在を証明することは極めて難しい、もしくは不可能だ。
(フェルマーの最終定理の証明に約400年かかったのは、ある意味不在の証明がそれだけ難しかったということだと思っている。)
だからこそ、未知に対する発言は、地位の高い人、影響力のある人ほど、慎重になり、たいていの場合、断言はしない(できない)。だって、断言できる情報が存在しないから。
なので、厚生労働省が「新型」コロナウイルスにそのような発言をするだろうか、と。
まあ、そう理解する人が一定数いることはわかったうえで、書かざるを得なかったのだろう。だからこそ、厚労省は人から人への感染を示唆する情報をその前後に何度も繰り返し述べている、のだろう。
しかし、人は自分の主観で文書を理解する。やむを得ないことだ。